禅林寺を出て奥多摩街道を渡ると、いよいよ今回の主役、多摩川と玉川上水の分岐点・羽村取水堰に到着。多摩・武蔵野はもちろん、東京に住む人で多摩川と玉川上水という2つの川の名を聞いたことがないという人はほとんどいないだろう。知名度と存在感は大きい、この2つの川だが、多摩・武蔵野に暮らす人々とはどのように関わっているのだろう。
多摩川は、山梨県塩山市・小菅村・丹波山村方面から奥多摩湖を経由して、多摩を通過し、神奈川県川崎市から東京湾へと注ぐ全長138kmの川。この長さは、国内の一級河川の中でも25位に入るほどの大きな川だ。流域には420万人以上が暮らしている。この多摩川、かつては氾濫を繰り返す暴れ川だった。新選組副長として有名な土方歳三の生家(現・日野市)も、1846年の氾濫で一部が流されてしまい、転居を余儀なくされたというエピソードがある。現在でこそ、道路や鉄道・モノレールなどが橋上を渡るこの橋も、かつては橋を掛けることさえできない激流だったのだ。
そんな多摩川に堰を設けて、江戸に住む人々の生活用水として活用しようという計画が実行されたのは、徳川家康が幕府を開いて50年後の1653年。関東の片田舎だった江戸の地だが、幕府が開かれたことで大都市に変貌。その結果、江戸の市民たちは慢性的な水不足に悩まされていた。幕府から命を受けた多摩川庄右衛門、清右衛門兄弟が、羽村から四谷大木戸(新宿区/新宿御苑付近)までの約43キロにも及ぶ生活用水路・玉川上水を完成させた。
玉川兄弟については、東京の小学校では社会科の授業でも習うので知っている人も多いと思うが、こんな疑問を抱いていた人も多いのではないだろうか。「玉川兄弟って、もともと玉川姓を名乗っていたの?玉川兄弟が多摩川に堰を造って、玉川上水を完成させたなんて、出来過ぎた話じゃない?」。ご存知のとおり、江戸時代に苗字を名乗ることを許されたのは武士階級だけ。玉川兄弟も、もともとは江戸の町人だったとも、多摩川沿いに住む農民だったとも伝えられているが、少なくとも武士ではなかった。「玉川姓」を名乗るようになったのは、玉川上水の工事が完成した後。幕府から、褒美として苗字帯刀を許されたのだ。つまり、工事の功を認められて武士になったということ。新選組が幕末の動乱の中、武をもって武士に昇り詰めたのに対して、彼らは文をもって武士になったのだ。
ところでこの玉川上水。現在では散歩コースとして人気があるが、生活用水路としての役目は終えてしまったのだろうか?さすがに江戸初期に作られた用水路では、現代社会には通用しないか?答えはNo。今でもしっかりと、流域に住む人々の生活を支えている。玉川上水の水は、山口貯水池(狭山湖)、村山貯水池(多摩湖)、小作浄水場、東村山浄水場に送られているという。玉川兄弟の開削工事から350年以上経った今でも、玉川上水は私たちの生活を支えてくれているのだ。
玉川上水の流れに沿って桜並木が続く。お花見シーズンには桜まつりが開かれ、多くの人々で賑わう。すぐ頭の上辺りの高さに桜の木が伸びているので、間近に見る桜の花に、大きな感動を味わえる。そのまま流れに沿って下っていくと、羽村市から福生市に。桜の季節にここを訪れると、もう1つの感動を味わうことが出来るのだ。羽村市内はピンク一色に彩られていた桜並木が、福生市ではケヤキ並木に変わる。同じ玉川上水沿いとは思えないほど、今度はガラリと一面が緑色。もちろん、桜が散ってしまった後でも、桜の新緑との競演を楽しむことができる。春というと、つい桜の花にばかり目が行きがちだが、おいしそうな新緑の葉っぱにも、ぜひ目を向けてみて欲しい!
玉川上水は、多摩川と寄りつ離れつしながら、このまま福生の多摩川中央公園方面に続いているので、2箇所のお花見スポットを楽しむもよし、途中で左へ折れてJR福生駅へ向かうもよし。のんびりとした時間をお楽しみあれ!。
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